今日もまた違う一日

今日もまた違う一日

おばあちゃんが認知症になった時のお話です。

閑話 昔話 引揚船

 

2005年の自分の日記の中に、母の記憶のかけらのようなものを見つけました。

 

その頃、「釜山と博多をつなぐ船が事故」というニュースを見てあっ!と思ったのです。
母たちが日本に逃げ帰ってきたのも、このルートじゃないのかな?と思いました。

 

母に電話をかけて、昔聞いた引き揚げの時の話をもういちど聞きました。
その時のメモです。

 

・お爺ちゃんは、日通の子会社、朝鮮通運のカイシュウの支店長だった。
・戦争が終わったのは8月。その4ヶ月前の4月に、司令部から北朝鮮のチャンゼンにという疎開命令が出た。
・おばあちゃんは行きたくなかった。

・そのチャンゼンから、12月に「やみぶね」に乗って釜山へ。釜山から、金剛丸という引揚船に乗って日本へ帰った。
・酔って吐いて流されたのはそのやみぶね。あの寒い北朝鮮の12月。
・母はけいちゃんちのおばちゃんを背負っていた。

 

こうして改めて見ると、終戦になってから4か月も待っていたんですね。

 

露助」の単語も出ていました。
露助は助平の助よ。露助が来るのに一番気を付けていた!先ぶれみたいに知らせる人がいたんよ。来たら教えてくれるの。露助が来たぞー!って声がすると、女の人は皆一斉に隠れていた!」

 

しかし母は何よりも一番、船のイメージがとても強いようでした。

 

 

 

 

もうそれはそれはちっちゃな、こんくらいしかない漁船でね。
そこにぎゅうぎゅうづめに人が入ってるの。
船が沈むんじゃないかってぐらい。
妹をこう…おぶってね。

 

その船、ガソリンがなくなって流されたの。
ずーっと海を漂ってた。

 

何よりも苦しかったのはトイレ!!
トイレを我慢するのが一番苦しかった。
どんなにしたくても、すしづめに人が入ってて身動きもできないから何もできない。
座ることもできない。動くこともできない。

 

それでまた船がものすごく揺れるの。
吐くんだけど、吐くものがないの。
何も食べてないから。

 

本当にっほんとう~っにつらい!!
死にそうだった。

 

 

 

この北朝鮮のチャンゼン(私にはどこなのかすらさっぱりわかりません)→釜山の「やみぶね」の話を聞くと、日本に流れ着いているという、北朝鮮の船のことも、リアルに想像できる気がします。

 

母の歴史を語るとき、やっぱり「朝鮮」という言葉から逃れることはできません。
日本がどれほど隣国と深く関わっていたかの記憶でもあります。

 

www.taro.org

 

こんなページを見つけました。
最後にさらっと書いてある文言があります。

なお、韓国にあった日本の在外資産は米軍が没収し、その後、韓国に引き渡されていますが、その中には日本の民間資産も含まれています

 

おばあちゃんが「家財道具、財産、いっぱいあった着物!全部、戦争で置いてきた」って言ってたのはこれだ!!と思いました。

 

戦後の混乱の中で、兄弟姉妹がたくさんいるのに、一人も残さずに帰れたことは奇跡だと言っていました。

 

日本に戻ってくるのが命がけだったこと…。
帰って来れたのは運が良いほうだったこと…。

 

父のお知り合いのかたが、
「あの時代を経験したお年寄りはみんな、戦争で心に深い傷を負っているから親切にしなければならない」
と言っていたのを覚えています。

 

もう今は薄れ掛けている、貴重な記録です。

 

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→→ 閑話 昔話 帰国後 に続く

おばあちゃんが認知症になったお話 → 目次

 


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