今日もまた違う一日

今日もまた違う一日

おばあちゃんが認知症になった時のお話です。

閑話 昔話 母の生い立ち

 

母の生い立ちは、何度も何度も書こうとしてはやめていました。

 

老醜をさらすというか、そんな華々しい遍歴があってもこうなってしまうのか…となってしまいそうでした。
でも書いてあげたいなあ。

 

一区切り付いたら…と思いながら過ごしていました。

 

母の父、わたしのおじいちゃんは山口県出身でした。
「毛利の殿様」の話を母にもよくしていたようです。

 

母方のお父さんも山口県の出身です。
こちらも、毛利の殿様の命令で治水工事を請け負った。
トンネルを掘っている時に右腕を失った。
だが殿様には褒められた。

 

…などのエピソードを聞かされました。

 

殿様という表現がリアルです。

 

おじいちゃんは萩高に通っていたとのことです。
これを聞いたとき、歴史好き、幕末好きのオムレットくんはとっても、興奮していました。
確かにうちはもう、一族の性格からしてばっちり、長州藩です。

(わたしが幕末における「萩」の名前の重要性を知ったのはオムレットくんに聞いてからです)

 

それからおじいちゃんは、日本から大陸にわたり、当事の「朝鮮」で働き始めました。

 

当時、大陸にわたっていた日本人は、戦争の終結とともにいっせいに日本に引き揚げました。
これを「引揚者」と呼んでいましたが、もう知っているかたも少なくなったような気がしています。


私の父も引揚者です。
西日本にはわりと多いと思います。

 

東日本では「シベリア抑留者」のかたの話を聞くことが多かったです。
まさに日本全国すべての人が災禍を受けたのだなあと思います。

 

 

 

向こうでは、何といっても日本が支配層ですから、かなりいい仕事につけたようです。
おじいちゃんは結婚相手を探すために、一度日本に戻ったといいます。
そしておばあちゃんと結婚しました。

 

母は長女です。
ソウルで生まれました。

なので、比較的地元の訛りがありません。

 

母は、子供時代のことはとても楽しそうに話してくれました。

 

住んでいたのがすごく大きなお屋敷だったことを覚えているのは母だけだそうです。
その頃の「大きなおやしき」「オンドル」「雛人形」の話をよく聞かせてくれました。
現地の方のお手伝いさんが何人もいた、とも聞きました。

 

大きな十段のお雛様が三つもあった!と自慢げに語っていました。
「家財道具、財産、いっぱいあった着物!全部、戦争で置いてきた」
と言う時の母は本当に悔しそうでした。

 

母は、現地のかたの家には絶対に行ってはいけない、ときつく言われていたそうです。


う~~~む。
時代を感じます。

 

 

「でもね、わたしはおきゃん(おてんば?)だったからそんなのぜーんぜん気にしなかった!

家の門の所で遊んでるとね、そばの『ちょうせんのうちのひと』においでおいでってされたの。

平気な顔してひょこひょこ入っていった。

みんなで囲んですごく可愛がってくれて、なーんにも怖くなかった」

 

 

私は母の口からこの話を直接に聞いているので、なんとなく当時の雰囲気を感じ取れますが…。


今の世代のかたはどうなんでしょう。
こどもたちに話しても、ぴんときていないようです。

 

差別感情があったことも、人間らしいふれあいがあったことも、どちらも本当なんだと思います。

 

 

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おばあちゃんが認知症になったお話 → 目次

 


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